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恥を捨てる必要性 [アセンション]

新しい年も明け、2012年まで又一歩近付くことが出来ました。
アセンションまでもう少しですね。
さて、今日は人類がアセンションに向かうに当たり何故「恥」という感覚を手放す必要があるのかです。


皆様はどのような時に恥ずかしいと感じていますか?
これは物凄く複雑な色々なシーンが想定できる質問ですが、私の例で言うなら
人前で無様に転んだ時、
皆の前で思いがけず褒められた時、
失禁したのが周りの人にばれてしまった時などがあげられます。

転んだ時に恥ずかしいのは自分の失敗が周りに知れてしまったことによるものです。
同じ感覚によるのが三番目にもありますが、こちらにはさらに
病気(障害者)である自分の身体に対する引け目とか、
失禁に対する社会的、文化的認識によるものとかが入ってきます。

真ん中のは少し種類が違い自己受容の問題です。

これらの例でお解かりでしょう、「恥」という感覚には自己と他者という関係があって成立するものです。
一人で自分の部屋にいる時におならをしても誰も恥ずかしいとは思わないでしょう。


アセンションした世界の人々は、とてもテレパシックな存在です。
言葉を口に発しなくてもこちらの想いや考えを察知して返事を返してきてくれます。
テレパシー的な力によるものか、オーラの視覚化が可能だからか
はたまたその両方なのかは、今のところ公的には明かされていません。

テレパシックな存在とは幽霊や龍との付き合いの長い私は馴染んでいますが、
自分の心が周りに筒抜けになる状況に抵抗を覚える人がいるだろうことは想像に難くありません。
ここには本音と建前、顕在意識と潜在意識という二重構造で生きている姿や、
光と闇という本質的な問題も絡んできますが、
究極的には自己受容の問題なんです。

自分を100%愛する生き方がアセンションした生き方です。
自己の心のどのような欲求も認めてあげる、表現することを躊躇わない
「個」としての自分が確立された生き方には他者との対比を必要としません。
だからどのようなシーンにおいても恥じることはないのです。

まずは日常の中、自分がどのような時に恥ずかしいと感じているかに気づいてみて下さい。
見つけられたら何故恥ずかしいのか、それは本当に恥ずかしいことなのかと
自分の心を掘り下げていってみて下さい。
意外な発見があるかもしれません。

私は前出の例で恥ずかしく思うことは現在ではなくなってきました。
恥ずかしいと思うことは実は感情ではなく、観念的なことなのです。
だから、考え方が変われば手放せるものが沢山あるのです。
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