どのような悲しみも時が癒してくれるという文章を目にすることがあるでしょう。
これは真実であるかという問いに私は否としか答えられません。
それは自分の体験から照らして見ても、答えは否なのです。

時が経つことで癒される場合は、確かにあるとは言えます。
それは、感じた悲しみを適切に表現できた場合の話です。
どのような大きな悲しみであろうとも、表現することを受け止めてくれる人がいたなら
必ずや、癒されるであろうと、私もいいます。
しかし、悲しみを適切に表現できない者は、いつまでも癒されることはないのです。

私は母が他界した時、ただ泣く場さええられませんでした。
母の存在でかろうじてつながっていた家族は、要を失いともに悲しみを分かち合うという
相手にはなりえなかったのです。
仲の良い友達はいたけれども、誰も身内の死を経験した者はなく、
ただ寄り添うことが必要という体験さえもない者達ばかりでした。
私が周りを気にせず泣くことが可能だったのは、
葬儀より二週間位過ぎた時に行くことができた土方歳三の墓の前でした。(爆)
その後私は、軽いアパシー(現実に対する無反応状態)に陥りました。
表面では笑っていても、心は全く動いていませんでした。
大好きな絵を描くことも出来なくなりました。
そんな日々が続く中、知り合いの我侭に付き合い夜の高速を飛ばして、
九十九里の海を見に行きました。
たどり着いた場所は、右を見ても左を見ても砂浜だけが続き、
正面には満月が海の上に浮かび、海面に月の道が光っていました。
この光景を目にした時にやっと自分の外側で感じているものと内側で感じているものの
つながりを取り戻すことが出来たのでした。

その後は折りに触れ、思い出しては涙ぐむ日々が、続くこと十年、
ここに至って自分でも自己の状態がちょっと変だと思うようになりました。


時折、親の死にあっても泣かない子供がいます。
「死」というものが理解できないほど幼い幼児ではない、
充分に理解の伴った年齢に達した子供が一滴の涙も流せないのです。
人間は強いショックを受けた時に、感情が麻痺してしまうことがあるのです。
理性は働いているから、日常は淡々とこなしていけますが、
このような状態の時、自己の内側では強い緊張状態が続いているのです。


私は、様々なヒーリングのテクニックを駆使して、
表現されることのなかった感情のエネルギーを外へ放出し続けました。
根気よくこのことと取り組んで、母のことを思い出して泣くことのない自分を手に入れたのです。
この過程は時間だけが過ぎればとは、到底思えるものではありません。

先日、長年使っていたマグカップを壊してしまいました。
これは母と最後に旅行した時に購入したものでした。
あの時から四半世紀の時間が過ぎています。
頑張ってきたご褒美に、奮発して蒲南茶荘さんで新しいのを購入しました。