もうすぐ50才の誕生日を迎えます。
私は、残念ながら誕生日の頃にあまりいい思い出がありません。
それは、時期的に新学期が始まって慌ただしい頃であるというのと、
この時期によく自分が死にかけたことがあるからです。

今、振り返ってみると何故そうだったのかは、医学的に説明がつくのですが、
あの当時はわかっていなかったので、
私は毎年この夏の終わりから稲刈りが始まる頃までの時期を、
とても複雑な気持ちを抱えながら過ごしていました。

「今年は大丈夫だった。でも、来年は・・・?」
その年、腎盂炎を起こしても起こさなくても死の恐怖は消えませんでした。
高校生の頃の自分が、こういう思いに取り憑かれていたことをはっきり覚えています。
実は現在もこれはいつでも起こす可能性があるので、
自排尿をせずに導尿を行う毎日です。
通っている病院の担当医からは、
「高熱が出たら、予約に関係なくすぐ来るように。」と、
膀胱炎の可能性が消えない私に言います。
膀胱に菌がいる状態ですと、私の身体は何時逆流症状によって、
腎盂炎を起こしても不思議がないからです。

誤解のないようにいうなら、一般の人は膀胱炎を起こしたからといって、
簡単に腎盂炎にはなりません。
尿管は、普通は一方通行で逆流症状というものをそうそう起こさないからです。
膀胱の内圧が高い私だから、
簡単に起きてしまうだけです。


こんな私が何時死への恐怖を手放したのか、
明確な時期は覚えていません。
とにかく、目の前にあるものを無くしてしまおうという努力をするのではなく、
あるものをただ、そこにあると認める、
いつか来るその時を気にすることよりも、
【今】を楽しむ。

こんな風に生き方を変えただけです。

実際、イニシエーションとして断崖絶壁の上に立たされたこともあります。
群馬県の某神社の奥宮でのことです。
山のてっぺんのお社の横に建ち、足元を見た時に、
「この高さから落ちたら死ぬなぁ」とは考えました。
横風が強くて身体はふらふらするのですけれど、
落ちる恐怖はみじんもありませんでした。
そこの神様に導かれてその場所に上がったからです。


手放すという行為は、持っているものを手の中から無くすことではなく、
手の中にあることを認めそれ以上でもそれ以下でもない、
そこに何の執着も持たない状態を言います。
明日死ぬかもしれないなら、今を慈しんで過ごす。
死ぬ可能性はなくなってはいないけれども死ぬ恐怖にエネルギーを注がなくなった
それが私を生かし続けている力だと思います