今回は、直接癒しには関係のないお話ですことお断りしておきます。

先日、生命保険の勧誘の電話が来ました。
最近の既往症があっても入れるタイプのものの紹介です。
私は生まれてから50年1度も生命保険という名のつくものに自分のことで掛けたことはありません。
母に関しては、本人の癌が発覚してから、本人の希望で母が自分に掛けていた契約のものを
契約者変更という形で私が掛けている形にしました。
私がまだ未成年の頃ですが、高校を卒業したということで支払い能力はあると見なせると、
保険会社との同意のもとに契約の移行を行いました。

私は母の死とともに、若年の者には大きな金額を受け取ったわけです。
そんな、保険におけるおいしい話を体験していても、
私自身は保険を掛ける対象にはなりません。
かけたくっても断られる、審査に落ちる人なのです。

私が医学的には何時死んでも不思議ではない存在だからです。


既往症があっても入れる、入院や手術の経験が1年以内になければ入れるといっても、
私のようなもともとの既往症が原因で今後悪化、入院や手術の必要性が出たり、
先進医療を受けることになった場合は、対象外だという。
目の前にいつでもある問題には対応しないで、
発生するかどうかもわからない癌等に備えるなんて、
不安や恐怖または保証のためにエネルギーを注ぐ趣味は私にはありません。

そうはいっても、まさかの時があるから・・・と、考える方は、
自分の顕在意識と潜在意識に断絶があり、
そこに責任を取ることなど考えてもいないということなのです。

保険会社の人とは電話で話したのみですが、
「声からは、そんな障害を抱えておられるようには感じられません。」とか。
いやいや、私の場合は声だけでなく、外見もそうは見えませんよ。
日本に3人しかいないという二分脊椎症の専門医さえも、
「どうしてこの人(私のこと)を診ているのだっけ?」と、わからなくなるような外見の持ち主です。
それでも、死にかけたことは数えきれず。
なのに、入院も手術も一度も経験したことのない人です。

医学の常識の外で、生きることを自分で選択し続けてきた私なのです。


死は誰の上にも平等に存在し、
故に生も又平等なのです。

死ぬことと同じように平静に生を受け入れること、
私のような存在にはこちらのほうが難しいことなのです。