多分、このブログではしつこいくらいに出てくる「自分を愛すること」について・・・。

まずは、先日何気なく買って食べていたおせんべいの袋に書いてあったことわざです。

折れるよりも曲がれ

読んだ瞬間意味がわからなくて、解説を読んで感動しました。
自分を頑なに貫こうとして折れて使えなくなるよりも、
柔軟に曲がって対処する方がいいという意味なのだそうで、
あぁ、これは自分を愛することと同じだと思いました。

時々、「これが自分だから」と、自分の主義主張や考え方を手放そうとしない方がいます。
それをするのは、あなたの自由です。
けれど、それを貫くあまりに周囲の人と衝突してボロボロに自己が傷ついていても、
止めようとしないのは、自分をぜんぜん愛していない態度です。
自分の考え(マインド)の方が大事で感情(心=ハート)を労わっていないことになるからです。

私が「あなたはとても優しい方ですね。」といった時、
「はい、私は思い遣り深い性質なのです。」と、応える方がいます。
こういうタイプの方の優しさは、往々にしてハートからのものではありません。
この場合の相手を思いやるという行為はマインドで行うものだからです。

日本人は思い遣りというものを大切にしますが、
これは、まさに精神の働きなのです。
では、感情(ハート)は、他者を思いやることがないのかというと、
ハートは感じるだけですから、頭で考える前に相手への行動に出ているでしょう。

私は思い遣るというなら、
自分のことも思い遣って欲しいし、自分を思い遣るなら
自分の為に使うお金を惜しむなといいたくなります。
自分自身にどこまで投資できるかは、
自分をどれ程愛しているかに関係しているからです。

時々、私が冷たいという非難を受けます。
こういう方は私に何を期待していたのだろうとは、思いますが、
私にとっては、あまり意味のないことです。
私は他者の評価に自分の価値の意味を重くは持っていないからです。
それと、人間を愛するという行為に対する認識の差だと思います。
相手を無条件に受け入れる、母親のような愛とこれを言いますが、
母親だって子供の成長にあわせて、愛し方も成長するのです。

赤ちゃん相手なら無条件に受け入れればいいですが、
子供が社会と関わりだした時には、しつけが必要になりますよね。
そのように、「養育するという愛」もあります。
いつでも、優しく庇護することが愛とは私は思っていません。


自分を愛する時に、マインドだけ大切にするのではなく、
感情だけに偏らずに愛することが大切です。
何故なら私達には精神と感情という違う側面があるからです。
もちろん、肉体のことも愛していただきたいのですが、
ここを混乱する人はいないと思いますので・・・。


さて、自分を愛するということのセンスが少しでもつかめましたでしょうか?