とっても多くの人がこの自分を「ゆるす」ということが出来ずに苦しんでいる気がします。

何も出来ない無気力な自分をゆるせない。
お腹の周りに贅肉がつくのがゆるせない。
好きなことを仕事に何て、していても稼げるわけがない。
自分はいい子じゃないから幸せになる資格なんてない。
いい年して独身でいるなんていけない。
子供を愛せないなら親になる資格なんてない。
棚ボタなんてあるわけない。(宝くじなんて当たるわけない。)
この他いろいろなパターンのゆるせないがあると思います。

人間哀しいことがあった後は無気力になります。
それは自然な反応なのですが、そんな生理的反応さえも責める。
自分の身体が自分の理想と違うと責める。

あるがままの自分を受け入れようとしていないのです。
自由に振舞うことも許そうとしていないのです。

そして、このブログで再三書いてきたのが罪悪感があるために
幸せになることを拒絶してしまうパターンです。

例え過去や過去世で何をしようと大いなるものとしての神は赦しているのに
本人がそれを受け取れないのです。
罪を赦すことが出来るのは唯一本人のみなのです。

私は二十歳を過ぎたくらいの頃から、ひとつ前の前世のことを沢山思い出しました。
いろいろわかってくると私的にも公的にも「何人殺したの?」ということも頭を過り、
過去の自分に押しつぶされそうになったこともあります。
でも、割り切ることにしました。
だって、戦争でしたもの殺さなきゃ自分が殺されるという状況でしたから。
そして、このことについてのカルマは背負っている感覚はありませんでした。
カルマとしてあるのは、自分を殺してしまったことだけでした。

精神世界的には殺人事件さえも、霊的次元では本人達の同意があるといいます。
そうなってくるとこれはもう、表層意識だけで量れる世界ではないと私は思いました。

わかっていない自分の裁量でジャッジすることではないと悟ったのです。
償いが必要ならそういうチャンスが来るだろうと、手放して生きてきました。
まさに全幅の人生への信頼の始まりです。
それは、これからも続いていくのです。


自分の中のゆるせないに気づくことから、
あるがままに生きる、無条件に自己を愛する旅は始まるのです。