故エリザベス・キューブラー・ロスは、その名著「死ぬ瞬間」のなかで、
人間が病と死に向き合うにあたって五つの段階を経ることを書いていますが、
これは治癒に向かうに当たってもほぼ同じ様なこの過程を通ると、
現在では認識されています。
その五つの段階の第三段階には、「取引」というのがあります。


私達は結構小さな頃からこの取引という行為を行っていたりします。
こどもが「前から欲しがっていたおもちゃは諦めるから、これ買って。」といったり、
自分の要求を通してもらうために、普段はやらないお手伝いを進んでしたりするのを、
親なら経験したことがあるかもしれません。

こうしたことを何時どうして覚えるのかはともかくとして、
この取引というものを病に対して、人生に対して行っていることがあるのです。
わかりやすい例は、
「毎日飲んでいたお酒をやめたのだから、血圧も下がるよね。」
「人の嫌がる仕事も進んで引き受けてきた私なんだから、幸せになって当然よね。」
という具合です。

ここには、その病を作り出している自分との向き合いや、
自分がやりたくて引き受けてはいないことに対する気づきや自己の幸福感に対する気づきは、
ありません。
当然ながらこんなことで病状は落ち着きを見せたとしても必ずしも治癒はしません。

取引とは、本人にとっての悪い事態になることへの延期に他ならないのです。


子供の親に対する取引なら親から「そんなことをしてもだめだよ。」といわれるまで続くでしょう。
けれど、病というものに対する取引、人生に対する取引は、
事態が悪化するまでそんな態度でいることにも気がつかない人が多いのです。
前出の例で言うなら、
いつも仕事を肩代わりしてあげてた同僚が資格を取って先に昇進したり、
皆がうらやむような男性と結婚したりして、
「取引」的態度に終止符が打たれたりするのです。

なぜなら、これは永遠に続く態度ではないからです。
そして、取引が成功しないと気がついた後には、
必ず「抑うつ」という落ち込みの第四段階を迎えることになるのです。


さて、人生に対する取引は自己がつくり上げた神と行われます。
これは決して、自己の中の内なる教師やハイアーセルフではありません。
それは、真実とは繋がっていない、
低自我によるエゴイスティックな行為だからです。