母のお墓のあるお寺のご住職さん、
最近、ぼけがきています。

この老人のぼけに、
肉体を霊に貸している状態の人がいると、
精神科医の越智啓子先生はその著書「人生のしくみ」で書かれていますが、
このご住職の場合などはとても納得してしまう私なのです。

私の母が亡くなったのが結構早いですから、
私もすでに30年はお付き合いさせていただいているので、
折りに触れお話をいろいろ伺うこともありました。
このご住職、仏教教典を信じていて、「幽霊なんていない。」
「人は死んだらちゃんと仏になっている。」と説く。
私はお友達にはなれないタイプの方です。

けれども、見えも感じもしないタイプの否定派の人を、
説得する術を私は持ちませんので、
そういう教義の考え方として黙ってお話を聞いていました。
ただ、こういうタイプの人は、どうやって人生の帳尻を合わせていくのだろうとは、
疑問に思っていました。

仕事柄、僧侶なら霊的な面にも秀でているように思われがちですが、
前述のように幽霊という存在を否定する、
これは人間が持つ霊的側面の否定でもあります。
人間の霊性を否定したままでは、
人生としてはバランスが崩れているのです。

このままではこの人の魂はカルマをつくりまくったままになってしまうのです。

けれども、ぼけとして憑依を起こして、
死ぬ前に人間の霊性についての学びを魂は行うことを選択したのです。
これはカルマの解消のために起きていることなので、
ぼけた行動に巻き込まれる人々は大変かもしれないけれど、
他人が癒してあげるわけにはいかないのです。

これを癒してしまったら相手の学びのチャンスを奪うことになるからで、
反対に癒し手であるはずの人がカルマをつくってしまう行いになるからです。


癒しとは相手がそれを望んだときのみに行うことのできる行為なのです。


私は他にも何人か、合理主義の幽霊否定派の人が、
ぼけてから亡くなっているのを見ています。
悪魔や幽霊を否定しているからといって取り憑かれないわけではありません。
むしろ、その逆のことが起きるのですから、
人生の学びの側面の深さを思い知らされるのです。