このテーマはかなりしつこく書いてきたと私は思うのですが、
皆様とのコメントのやり取り等でこれが足りないもしくはまだわかってないと
思うことがいぱいあるので、改めて取り上げてみました。

自分を愛するって自分を大切にすること。
例えば、
「ちょっと具合悪いところあるんだけれど、仕事忙しいし、
医療費なんて余計な出費かけたくないし・・・。」
なんていうのは、全然自分を大事にしていない、
自分の身体よりも仕事のことやお金のことを大事にしているのです。

自分をありのまま受け入れるということは、
具合が悪くなっている自分を認めてあげなくてはいけないし、
それに対してケアしてあげなければ大切にしているとはいえない。


人類の進化モデルと言える五次元の方々は、
「社会においても誰も自分に我慢などさせない。」と語っています。

自分に我慢させないのは我侭だと思っていませんか。
それは真実ですか。


ちょっと別の方とのブログで羽目をはずすということについて語った時、
外す羽目があること自体に私には違和感がありました。

そこでは一応テーマが男女の愛でしたので、
恋人への愛を表現するのに羽目を外さなければならない・・・つまり、
普段は我慢か自制しているものがあるという、
何故にそんなことが必要なのでしょう。
それは公衆の面前でことに及ぶとか言うなら法律の問題で罰せられるでしょうが、
そういうこと以外で我慢すべきことというのがわからないと思ったのです。
自分の欲求をすべて相手に表現することをしないのは、なぜなのでしょう。
相手がその欲求にすべて応えてくれないのが、わかっているから?

すべてに応えられないのなんて当たり前のことではないでしょうか。
それでも表現してお互いにとっていい形を見つけていくのが、
相手への愛とコミュニケーションの本質ではないでしょうか。
大事に思う相手なら誰だって傷つけたくない、
思いには応えたいかもしれないけれど、
一方的に自分を犠牲にする必要はないと思うのです。
大切な人が犠牲になっているというのに相手は、そんな愛に心底から喜ぶでしょうか。

なんだかずれまくった愛という気が私にはしてしまいます。


自分自身についても同じで、頭で考えず、ハートの欲求に従っていったら
ハートの本質は愛だから、自分の為に他者を傷つけることなんて
決して要求するはずがないのです。
だからこそ、自分も傷つけてはいけない、我慢させてはいけないと思うのです。
もっと自己の中にある愛を信頼できればいいのにと思います。
私達は等しく神と同じ要素でできているのですから。