タイトルの言葉に気づかせてくれたのは、
菊地一也さんでしたが、
美術専門学校にも通った、もともと美術系の人間である私は、
このことの本質にはずいぶん早くから気づいていたと思います。

恥ずかしがっていては、artは表現できないということを、
私に知らしめしたのが山本鈴美香さんの「愛の黄金律」でした。
この作品を読んだのは、私がまだマンガを描いていた頃、
つまり20代のことです。
主人公は美大に通う女子学生ですが、
この少女に同大学のなかでもカリスマ的な男子学生が目を止めて、
自分の作品のモデルに欲するところから、ストーリーは始まります。

普通の少女は、いきなり求められてもヌードにはなれません。
やがて、2人を取り巻く人々によって、
主人公である少女のもつ素質が理解されていきます。
作品に現れている感受性の豊かさは、
そのまま身体の感度の豊かさをあらわす。
だから、この主人公は男との関わりによってその才能をつぶす可能性も持っていると、
言われるのです。
反対にカリスマ的な男子学生の作品には、
女性との関係の豊富さが現れていると言う。

ここのくだりは私にとっては衝撃的でした。


つまり、見る目のある人には、作品を見れば私が性的に未経験であることなんて、
バレバレであるということでもあるからです。
(多分この問題は、経験済みである人よりも未経験の人の方が恥ずかしさが大きい。)
しかし、これを理由に恥ずかしがっていたら、自分の作品を世に出すことも出来ない。
これは何も絵に限られた話ではないのです。
表現の仕方の巧さ以前に、感覚的にそのことを理解しているかが、
あらわれるものであるからです。

このように、
表現するという行為には、心をオープンにして自己を晒す側面がついてまわるのです。


10代の終わりに読んだあるエッセイ
「恥ずかしいと思わない?結婚しますということは、
これから自分とこの人はHすると、公言するのと同じ」
と書かれていたことに、笑いながらも共感したシャイな私でした。
でも、私はプロを目指して作品を描いていたわけですから、
人様に読んでもらえなかったら意味がない。
バレバレだろうと恥ずかしがっている場合ではないと、私は吹っ切ったのでした。

「愛の黄金律」という作品は、読み手である私に問題提起し、
自己を変容させる切欠をつくった作品になるのです。


残念ながら「愛の黄金律」は、コミックス1冊が、発売されただけで、
連載は中断してしまいました。
作者の山本鈴美香さんが別の世界に行ってしまったからです。
もともとマンガの世界は、作者とファンの関係が、
教祖様と信者の関係性と近いとは言われます。
「エースをねらえ」というスポ根学園恋愛ものという、
少女マンガの王道で大ヒット作を生み出していた作者です。
熱狂的なファンがついていたことでしょう。


heartをオープンにすると一言では言っても、
現実にこれを実行することは簡単なことではありません。
特定の誰かに秘密を打ち明けることがハートをオープンにすることではなく、
誰に対しても同じ態度で向き合えることが、
真実開けた態度であるからです。

友達に見せる顔と親に見せる顔、社会の中にいるときの顔というように、
違っていたり、使い分けていたりするのなら、
まだまだ心(ハート)を開いているとは言えない状態と言えるでしょう。
自己の心の闇さえも愛し表現することが、
より深いart表現につながるのです。

今回のイラストは、大天使ミカエルの兄サミュエルが、
神の怒りに触れ、地獄に落ちてルシファーとなるも、
再び許されて天界に戻った時、その名をルシフェルへと転ずる。
「大天使 ルシフェル」
ルシフェル本人にとても気に入ってもらえた1枚です。