仏教にしても神道にしても日本人のこれまでの神仏との付き合い方は、依存的なものです。
それが端的に表現されているのが、表題の言葉でしょう。
何か困ったことがあった時、自分の力の及ばない部分を何とかしてもらうという心理がここにあります。

神社で祝詞を奏上してもらったことはありますか?
題目は心願成就でもお祓いでも、商売繁盛でも何でもいいです。
神職さんは言います「私がやるわけじゃありません。神様がしてくださるのです。」

原則として、神職さんは神様への取次ぎを行う人なのです。


ここにあるのは、他力本願とまでは言わないけれども、
100%の自己の力を信頼してそれを発揮して生きる自己信頼とは程遠い
他者に自己の力を明け渡して生きる依存的な姿です。
ですから、神様仏様方を自己の上に位置するものとしての生き方になってしまいます。
これでは信仰を持っていても、真の意味での自己の強さには繋がらなくなってしまいます。

私は神様仏様を敬っています。
長い歴史の中で人間の為に、地球の為に働いてきた存在に感謝しているからです。
けれども、自分の上には置いていないのです。
奉るものではなくまつろうもの、交わるものという風に捉えています。
もちろん敬っているから礼は取ります。
人と付き合う時のように、その言葉に耳を傾け、時には頼まれごとも引き受けますけれど、
すべてに「Yes」をいう必要はないと思っています。

それは、唯一絶対の神、英語で言う「GOD」の一部である自分という
存在を認識しているからに他なりません。