先日「ロード オブ ザ リング」のDVDを1から3まで観賞しました。
主人公のフロドがラストでもう何も知らなかった頃には戻れないと、
自覚するところが生々しくも痛々しく思いました。

ホビットであるフロドや友人のサムは物語では立派な大人なのだけれど、
人間やエルフ、オーク、といった他の登場人物と比較するとその体躯は小さく、
その種族がもつ純心で素朴な性質とあわせて子供のイメージになります。
実際映画の撮影は子役が代役を務めているところが幾つもあるそうです。


目の前の現実が辛いと人間は空想世界を持つことで心身のバランスを取っていることがよくあります。
けれども、過酷な環境の子供にはそれさえも出来なくなるのです。
私は「指輪物語」も「ナルニア国物語」も原作は読んでいません。
子供の頃にはまって読んだのは、「シートン動物記」と「ファーブル昆虫記」でした。
あとは小さいモモちゃんのシリーズを時々読んでいたのを覚えています。
でも、夢中になったのは前出の二つで、ある意味とても現実的なお話と言えます。
これには二つのことが考えられます。
小さい私はやはり「私」なので現実的な性格だった。
小学校に上がる頃に、すでに夢を見ることが出来ない心理状態だった。
どちらも当てはまりそうなお話です。

私がファンタジーという分野を楽しんで読めるようになったのは、
中学生頃からで、すでに現実とは別物の感覚が備わってからのことです。

私は姪の幼稚園時代をサポートするときに、
あの世代の子供達とたくさんふれあってみて、不思議に感じたことがありました。
この頃、姪はアニメのキティちゃんのシリーズが好きだったので、
喜ぶだろうとピューロランドに連れて行ったのですが、
着ぐるみキティちゃんを見て、姪は「本物じゃない」と泣き出しました。
これはつまり、姪にはアニメのなかのキティちゃんと着ぐるみキティちゃんが、
違うものだと認識できているわけですから、家族は成る程と感心したわけです。
しかし、現地に着くまでは本物のキティちゃんに会えると思っていたわけですから、
テレビの中に自分も入れると思っていたのでしょうか。
この辺りのことは今ではよくわかりません。
一方、一緒にいったお友達は泣く姪を「あれはキティちゃんだよ。」と、
説得しようとしていました。
つまりこのお友達には、アニメのキティちゃん=着ぐるみキティちゃんだったわけです。
子供の現実把握の仕方は面白いと感じるところです。
ちなみに私は姪と同じで着ぐるみを同じキャラと認識したことは一度もありませんでした。

こうした子供の現実と空想世界の境のない時代を英語では、
「マジック・アワー」子供の魔法の時間と表現されると、
カウンセリングを学んでいた時に教えられました。
これは子供が健全に育つ上でとても大事な時間なのだと言います。
けれども私はもっと別な意味で大切な時間だと感じるのです。

前出の例でわかるようにどちらの子供もキティちゃんに会えると思っていたわけですから、
キティちゃんが生きて存在していると思っていることには変わりありません。
つまり、アニメのキティちゃんは単なる絵という認識がまだ成されていない、
情報を限定する知識がまだ二人の子供にはないからです。
これがとても大切なことなのです。

私は「できない」という意識がないから、
不可能を可能にしてしまう実例を知っています。
何もない空間から石を取り出してしまった子供がいます。
本人曰く「石が手に飛び込んできた」そうで、
取り出そうとさえもしていなかったらしい。
また、超能力少年がスプーンに使われる金属は、
あのように曲がるものではないと知ってしまったら曲げにくくなったという話も読みました。

知識というのはマインドとして通常働きます。


私は三才の時に障害の診断がされ、
両親は私が大人になれない宣告を受けました。
これらが私に直接されていなくても、
私が闘病という現実と向き合うことは、著しく私のパワーを奪われることになったのです。
ゆえに、私が現実的な性格の子供で在らざるを得なくなるのです。

私が空想の世界に耽溺できるようになったのは、
通院の無くなってからの時代であり、
現実と別物の感覚が身についてからですので、
私は自己の可能性というものを現実からの延長以外には考えられません。
しかし、マインドが限定する世界の危うさは認識できているので、
これを外した人間の持つ可能性は無限なのだとも知っているのです。