今日、自宅にあるオーラソーマのボトルをクリーニングしていて、
ふと思ったのです。
「私の魂は、オーラソーマを教えたいと思っているのだろうか?」
長年プラクティショナーとして立場を取り続け、
オーラソーマを止める気がないことには気がついている。
けれど、これだけ長くやり続けながらもティーチャーを目指す気はさらさらなかった。
これは、私の魂が本当に望んだ在り方なのだろうか?と・・・。

そこで、自己の高次側面に訊ねてみました。
「私の魂はオーラソーマを教えたいと思っていますか?」

これを訊ねている間も感情は全否定している。
「めんどくさい」「教えるのに向いてない」
こんな思考がぐるぐるしている。

けれど、手元のダウジングは「イエス」に回り続けていた。
これを目にした時の私のショックを理解して貰うのは、難しいかもしれません。

よく、ダウジングの答えが変わるとかいう話を耳にしますが、
私は答えが変わることはありません。
そのようにころころと変化する次元での答えを求めないというのと、
私の意志や感情がダウジングに影響しにくいというのがあるようです。
このことはまた、改めて詳しく書いてみようと思っていますので、
今回は話を戻しますと、
私の魂は私がオーラソーマを教えたいと思っていることになります。

では、この結果を見ている間にも全否定したくなるこの気持ちはどこから来るのか。
続けて私はこの否定の気持ちは、マインドから出ているのか、
感情から来ているのかを訊ねてみました。
どうやら感情からきているようです。
そうなるとこれは、私の中に人に教えるということにおいて傷ついた体験、
思い込みがあるということです。
しかし、思いあたることは何もなく、とにかく原因は特定できないにしろ、
人に教えることに対する抵抗に関わる感情を、
マスターと天使に癒しをお願いしました。

すると、私の内側のエネルギーが軽くなり、
クラウンからハートまで入り込んでくるエネルギーの流れを感知しました。

このようなエネルギーの変化が生まれるということは、
確かになんだかわからないその傷ついた体験は、癒されたのです。


さて、今、これを書いていて思い出しました。
私の子供の頃の最初の将来の夢、
「お茶とお花とお習字とお琴の先生になる。」と、私が言い出した時に、
母は表だった反対はしませんでした。
お茶とお習字にも通わせてくれました。
けれど、
「人にものを教えるというのは、根気が必要なことで
短気ですぐ感情的になるあなたには向いていない。」
と、言われたのです。


子供の頃の私は、身の回りの子供達のなかで最も感情的爆発の多い子供でした。
でも、現在考えてみるとこれは当たり前の状態と思えます。
このことを言い出した頃の私はすでにPTSD状態になっているのです。
感情をコントロールすることなんてできるはずもない精神状態のまま、
過ごしていたのですから。


自分が知っていることを他者に教えてあげたいというのは人間の基本的な欲求だそうです。
確かに日常において、ペットのことでも何でも、
語らずにいることの方が難しいと私は感じます。
それなのに教える立場に回ることを頑なに拒んでいたのは、
反論も出来ない小さな自分が心の中にいたからなのですね。


マインドよりも感情の方が魂に近いけれども、
感情も必ずしも魂と一致していない、
癒されないと、こんな状態のこともあるのです。