それは平成6年9月の江ノ島から、始まりました。

私が生まれる前になされていた神道系の霊言に基づく神様詣でです。
その霊言による神の世界の完成をその言葉を書き記した人は、
「裏が表になる仕組み」と呼んでいました。

「何故、私なのか?」
疑問は消えなかったけれど、霊言を知った私は動くしかないと思い、
江ノ島を皮切りにあちらこちらの神社に御神酒を持って出掛けて行きました。
必要と感じたところには、玉串の奉納もさせてもらいました。

そうして飛び回って平成7年11月までに21の寺社へ行き、
行った場所で御朱印をいただくことをしていたら、御朱印帳がいっぱいになりました。
最後のページになされた御朱印を見た時に、
やれることはやりきったと、私は思いました。

あれから20年近くの時が流れています。


裏が表になる仕組みでは、
これまで隠れていたものが表に出てくる世界だともいう。

最近の世の中を見ていると、
これが浸透してきたことを感じるのです。
例えば、富士山の扱いに裏表が無くなったことに気がつくのです。
江戸の昔から東海道側から見るのを「表富士」と呼んで、
写真や絵画は表を中心に作品化されるものだったのに、
最近ではこの「表富士」「裏富士」という言葉さえ聞かなくなってきました。

波動という言葉を使わない人でも、そういう見えないものの力をも感じ取っていて、
敏感に嘘と真実をかぎ分けている。
事件としては、「“全聾”の作曲家・佐村河内守氏によるゴーストライター騒動」などが、
ありましたが、表に出てこないはずのゴーストが表に出てきた騒動です。

そして、裏が表になったところで好き嫌いを決めている節さえ感じるのです。
芸能人などは、外見と中身にギャップがあっても、
キャラとして売るためのスタイルが決まっているなら、ファンとしてはOKで、
顔は悪人面でも、実はとってもいい人というギャップに萌えるというウケ方までする。
ひどいことしてても、欲望に忠実なとこがいいという場合もある。

これまでだったら隠しておけたものが隠せなくなった世界の生き方は、
ハートのエネルギーを閉ざしてこれまでのように真の姿を隠して生き続けようとする人には
きついことと思います。


かくいう私も実はあまり顔は晒してはいない。
ただ、これは仕事上のことを考慮してのことです。
普通にセラピストやヒーラーだけしているなら顔を晒しても、
対して問題がないのですが、
私の所には心霊絡みの相談も来るので、
この場合には、顔を晒しているのは時にデメリットが大きすぎる。
呪術的なケースだと痛手にしかならない。
一応こちらは専門外なのですけれど、
過去の事例から見れば、用心は必要と感じるのです。

仕事しなくてもいいなら気にしないのに・・・と言うところですね。


1月1日よりフェイスブックにログインすると、個人情報まで読みとられると、
退会を決めた方もいるようですが、
読まれてもそれで悪用されるわけとは違うので、
ここはやはり隠しておきたいことがあるかどうかに分かれ目があり、
恐怖にエネルギーを注ぐよりは、オープンに構えていてこそ問題も
少ないように思う私です。
もちろん利用の仕方に慎重であることは、必要な態度だと思います。

今年は2014の7の年なので、
自己が抱える恐怖と向き合わざるをえなかった人が多かったのでは?
ハートのエネルギーが閉じている人ほど恐怖は沢山抱えているのですが、
これと向き合う鍵は信仰にあり、手放しと信頼が不可欠です。

何を選ぶも自分の選択で、
自分の中心からぶれずに2015年も生きたいところです。