罪という意識 [ヒーリング]
多くの方々の相談にのっていると、
親がその育て方で子供側に罪の意識を植え付けているのをみつけることが、
しばしばあります。
こういうケースは、その子供は自己の心の中に自分は親を喜ばせることができない
「いけない子」といった罪悪感を持ち続けていくのです。
以前日本人は罪悪感が民族的に強いということを書いたのですが、
これはどこから来ているものなのか、ちょっと不思議に思いました。
キリスト教には「原罪」があり、人間の罪なる側面を説いていますが、
日本人のキリスト教徒の占める割合はそんなに多くはないと思います。
日本ならではの宗教神道には、罪悪感を持ち続けるような考えそのものがありません。
なんせ「罪という罪はあらじ」ですから。
大らかですよね。
なのに日本人の罪悪感が強い多くの人の考えの根っこにあるものは、
仏教なのかしらと思います。
仏教だと人間は生ある生き物を食して生きているという発想がありますから。
どのような理由で植えつけられたものであろうとも、
罪悪感が強いとその人は、自らが幸せになることを逃しやすくなります。
幸せになるに値しないという生き方になってしまうからです。
自己を正しく承認する
ここには、人によって観念を変えるというという癒しが必要な場合と、
過去の体験を癒すという感情の癒しが必要な場合と、
様々なケースがありうるものなのです。
タグ:罪悪感っていらないもの
罪の意識がなさ過ぎる人ってどうなんでしょ?
父には罪悪感のかけらもないです…
by キャシー (2010-03-02 10:41)
自分を承認するって、結構難しいことですよね^^;
by お茶屋 (2010-03-02 10:57)
キャシーさん
反省する心があれば問題ないのでは?
これは別物ですから。
by A・ラファエル (2010-03-02 10:59)
お茶屋さん
とても難しいですね。
たいていは社会評価とか自分の外の承認を求めようとしてしまいます。
でも、必要なのは自分自身の承認ですから、外からの基準によっていては、
身についていないともいえます。
by A・ラファエル (2010-03-02 11:02)
日本人は仏教、神道のほかに儒教思想も色濃いと思います。
詳しくないんですが。^^;
by くじら (2010-03-02 17:51)
くじらさん
儒教は興味を持ったことがないので、わからないのですが、
罪の意識と関係があるのでしょうか?
あるとするならそれは精神体(観念)の部分でしょうね。
by A・ラファエル (2010-03-02 19:27)
自分を承認するのは、ホントに難しいです(^^;)
よく、虐待されていた子供は”自分が良い子じゃないから、両親が愛してくれない”と言うと聞きます。これは、一種の防衛だと、聞きました。
根底には”良い子にしていたら、愛してくれる”希望・期待を持って、精神のバランスをとる為だそうです。
親が子供を愛する事の難しさも、感じます。
今一度、振り返ってみたいと思います。
by さうざんバー (2010-03-02 21:21)
さうざんバーさん
良い子にしてたら愛してくれるで成功しても、これは条件付の愛になりますので、
ありのままの自分で愛されるという
自己受容と自己承認は得られなくなってしまうのです。
けれども、人間はそれでも癒される可能性を持っているのです。
知らなかったものを学び身につけることは可能なので、
親としての完璧を自分に求める必要はないのですよ。
by A・ラファエル (2010-03-02 21:46)
自分の場合、母親の病気について真剣に考えることをせず、休日の度に旅行で遠出していたことが、罪悪感のような形で残っているような気がします。
by edogawasanpo (2010-03-02 22:24)
edogawasanpoさん
何故まだその体験から癒されようとしないのかが、
罪悪感のなせる業です。
by A・ラファエル (2010-03-03 08:30)
親子の関係に気づかされるケース、私もよくあります。
私自身もそういう生き方をしばらくしてきてましたし…
by ruriy (2010-03-03 08:53)
「東京タワー」という映画で、酸素マスクを付けてオカンが苦しんでいるシーンになった時、母親と重なり、(もう勘弁してくれ・・・)と悶絶していました。
あのシーンを思い出しても、もう涙は出なくなったと思っていたのですが、まだのようです。
by edogawasanpo (2010-03-03 08:58)
ruriyさん
私も被虐待児童でしたから、たっぷり語れる気づきもあります。
でも、大事なのは本人さえその気になればそこから癒されるだと思います。
この本人のやる気をいつも自然にそぐのが罪悪感と感じるのです。
by A・ラファエル (2010-03-03 09:02)
edogawasanpoさん
つまり、時が癒してくれるようなレベルのものではないと言うことですね。
by A・ラファエル (2010-03-03 09:04)
易経を独学した時に、日本人における儒教の影響を感じました。
五常=仁・義・礼・智・信は、儒教で人の守るべき5つの道徳
といわれます。
なにを以て罪と感じるかが倫理・道徳に基づいているとするなら、
その拠り所になっているのが儒教的道徳のように思いました。
中国から渡った思想が、
日本人に受け入れられながら変容していった過程はとても興味深く、
私見ですが、ほとんどの日本人が無宗教のようでありながら、
実はそうではないという訳はここにあるように思いました。
子供の頃、南総里見八犬伝という物語に夢中になりました。
滝沢馬琴が生涯を掛けて綴った長い読本ですが、
私が読んだのは子供向けの短い物です。
勧善懲悪の物語で、現代版になり、短くなっても尚、根底に流れる強い何かを感じるせいなのか、知らない世界に触れたようで面白かったのです。
精神体(観念)とは、こうあるべきというような、ルールなのでしょうか?文化人類学的な?
個々人の感情とは別の。。
by くじら (2010-03-03 16:53)
くじらさん
精神体とは思考が形作るものです。
地球という規模で人間を捉えてくださるとわかると思うのですが、
常識も良識も地域でかなり違います。
これで差が出るものは、概ね思考が作り出しているといえます。
by A・ラファエル (2010-03-04 11:40)
精神体は思考が作るもの、ですか。
持って生まれた質とは違って、
生まれてから周囲の影響を受けて育つものなんですね。
>人によって観念を変えるというという癒しが必要な場合と
>過去の体験を癒すという感情の癒しが必要な場合
観念を変えたらどんな自分に気がつけるのだろう?
生きていて良かったと思うことって
きっとこれだと思います、私の場合・・。
by くじら (2010-03-04 18:23)
くじらさん
幸せとは自分が決めるものですよ。
by A・ラファエル (2010-03-04 20:58)